2013年10月19日
日本語は神か
私 「先生、先ほどエビの殻を襲撃されていたようでしたが、お食事もう終わりましたか?」
先生 「終わりました」
私 「スーパーで1キロ6.95ユーロの特価で売ってたんで買ってきたんですが、やっぱりあれですか、この季節にはエビがいちばんですかね」
先生 「いちばんですね」
私 「食後のアニス酒入りコーヒーを淹れてみましたが、今お時間ありますか?」
先生 「夜勤の前まで時間があるのでちょっとなら・・・」
私 「ありがとうございます。先生は主要ヨーロッパ言語はもちろんのこと、日本語もご堪能だと聞いておりますが」
先生 「ワタシハカナコサンデス。チピオナデコマモノギョウヲイトナンデイマス」
私 「わっすごい。かなり流暢ですね。アクセントないし・・・さて、このあいだ、久しぶりに長期間日本に滞在したのですが、そのときに神というものは日本語のようなものなのではないか、と改めて確認したのです」
先生 「神、つくづく好きですね」
私 「私の弱点とでもいいましょうか・・・業ですね。さて日本語はあいまいなところがあって、複数と単数を区別しませんが、神にはそんなところがありますよね。旧約聖書読んでても“私”で語っていたかと思うととつぜん“われわれ”になって、あそこで私はのけぞってしまいましたが」
先生 「聖書を書いたのは筒井康隆ではないかという話も」
私 「時制に関しても、日本語だと過去形ははっきりわかりますが、現在形と未来形ははっきりしないですよね。“私はエビの殻を食べます”と言うとき、それが今なのか100年後のことなのかまったくわからない。神も、過ぎてしまったことは”done”として処理しているけれど、何しろ神なので現在起こっていることとこれから起こることを同時に知覚してしまうために現在形と未来形の区別をつけていないという・・・“オレは神なのだからあいまいなことでも無理押ししてやる”といった不遜さと自己撞着も感じられなくはないですね、この辺も神の魅力のひとつですが」
先生 「コーヒー、もう一杯ください。アニス酒なしで」
私 「あっはい。KANAKO3先生なんかもあれですか、明日起こることと今日これから5分後に起こることの区別はされない方ですか?」
先生 「時間自体が行ったり来たりできるものなので」
私 「うーん、時間が行ったり来たりして静止している私がある、あるいは時間が静止していて自分が行ったり来たりしているということになるのでしょうか。となると、時間を知覚する私たちの脳が頑迷だから私たちは時間に囚われているということですか?」
先生 「端的に言ってそういうことになるが、脳の頑迷さから解放されるためには一度猫にならなくてはならない」
私 「先生も以前は私のように俗な存在で、その後しかるべきプロセスを経て猫になったと解釈してよろしいわけでしょうか」
先生 「よろしいです」
私 「ありがとうございました」
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